アウグスティヌス 〔イタリア・人物・歴史〕
イタリアで見聞してヒッポに伝えた修道院が、彼の死後どうなったかはわからないが、彼が編纂したといわれる『聖アウグスティヌス会則』は、とくに12世紀以後、西ヨーロッパの聖堂参事会の準則として普及した。
しかし、西方における修道院拡大の主たる出発点となったのは、南フランスのレランス島、ロアール川に臨むトゥールのマルムーティエ、および聖パトリックによってキリスト教化したアイルランドである。
ローマのコンスルの家柄であったホノラトゥスによって5世紀初頭開かれたレランス島の散居修道院は、ローマの没落貴族を修道士として再生させ、ローヌ川流域一帯の教会、修道院の発展にとっての一大根拠地となったし、トゥールのマルティヌスは新興のメロビング朝フランク王国の守護聖人として、ガリアとイタリアにおける多数の新設修道院の被奉献人となる。
また、アイルランドは東方から伝えられた古代の文化遺産をたいせつに保存し、「知恵の乳房」uber sophiaeとよばれて好学の者を集めたが、修道士たちはガリアにリュクスーユをはじめとする50以上の修道院を建設して不滅の功績を残した。
しかし、好学の修道士という点では、カッシオドルスCassiodorus(487―583)もこれに劣らない。
彼は東ゴート王国の高官になったローマ人貴族であるが、ゴート戦役中に政界を退き、南イタリアのウィワリウムVivariumに修道院を建てたが、その整備された図書館は以後西欧の修道院図書館の手本となった。
中世前期の修道院拡大の最後の仕上げをするのはアングロ・サクソン人修道士たちである。
7世紀から8世紀にかけてのビリブロードWillibrordおよびボニファティウスBonifatius(675ころ―754)の仕事がそれである。
もっとも、この2人はともに修道士ではあったが、修道院の建設や修道士の教育よりも異教徒への伝道や教会組織の整備に努め、2人ともローマ教皇から大司教に任じられている。
したがってその意味では前者が「フリースラントの使徒」、後者が「ドイツ人の使徒」とよばれるのは正しいが、彼らの仕事には多くの修道士が協力しているし、前者が8世紀初めごろ建てたエヒテルナハ修道院、とくに後者が774年建てたフルダ修道院はドイツのモンテ・カッシーノとよばれて、ともに修道院の歴史に消えざる足跡を残しているから、やはり忘れることのできない人物である。
しかし、西方における修道院拡大の主たる出発点となったのは、南フランスのレランス島、ロアール川に臨むトゥールのマルムーティエ、および聖パトリックによってキリスト教化したアイルランドである。
ローマのコンスルの家柄であったホノラトゥスによって5世紀初頭開かれたレランス島の散居修道院は、ローマの没落貴族を修道士として再生させ、ローヌ川流域一帯の教会、修道院の発展にとっての一大根拠地となったし、トゥールのマルティヌスは新興のメロビング朝フランク王国の守護聖人として、ガリアとイタリアにおける多数の新設修道院の被奉献人となる。
また、アイルランドは東方から伝えられた古代の文化遺産をたいせつに保存し、「知恵の乳房」uber sophiaeとよばれて好学の者を集めたが、修道士たちはガリアにリュクスーユをはじめとする50以上の修道院を建設して不滅の功績を残した。
しかし、好学の修道士という点では、カッシオドルスCassiodorus(487―583)もこれに劣らない。
彼は東ゴート王国の高官になったローマ人貴族であるが、ゴート戦役中に政界を退き、南イタリアのウィワリウムVivariumに修道院を建てたが、その整備された図書館は以後西欧の修道院図書館の手本となった。
中世前期の修道院拡大の最後の仕上げをするのはアングロ・サクソン人修道士たちである。
7世紀から8世紀にかけてのビリブロードWillibrordおよびボニファティウスBonifatius(675ころ―754)の仕事がそれである。
もっとも、この2人はともに修道士ではあったが、修道院の建設や修道士の教育よりも異教徒への伝道や教会組織の整備に努め、2人ともローマ教皇から大司教に任じられている。
したがってその意味では前者が「フリースラントの使徒」、後者が「ドイツ人の使徒」とよばれるのは正しいが、彼らの仕事には多くの修道士が協力しているし、前者が8世紀初めごろ建てたエヒテルナハ修道院、とくに後者が774年建てたフルダ修道院はドイツのモンテ・カッシーノとよばれて、ともに修道院の歴史に消えざる足跡を残しているから、やはり忘れることのできない人物である。
update:2010年01月31日
